人は突然いなくなる「報告52日目」
結婚はめでたいことだ 臨終はかなしいことだ まちがえるなよ
— 歌人 枡野浩一 公式 (@toiimasunomo) 2014年9月17日
【枡野浩一『淋しいのはお前だけじゃな』(集英社文庫)収録作】#自分が結婚するわけでもないだれかの結婚相手を知って一喜一憂する気持ちがどうしてもわからない
知人Aのお母さんが昨夜、交通事故で亡くなった。
知人Aはお母さんと二人暮らしで、私から見ればとても仲の良い親子だった。
私の両親と年は変わらない。
心中察すると穏やかではいられないだろう。
共通の知人を通して連絡をもらったが、お通夜には行けそうになく、労いの言葉を掛ける事しかできなかった。
電話を切って、感情に意識が向く。
「人って突然いなくなるんだよな」
よく、『今日と同じように明日が来るとは限らない』と人は言う。
それを実感を持って理解したのは20代だった。
福祉の仕事をしていたので、20代でも結婚式より葬式に出る回数の方が多かった。仕事に就くまで親類の死を経験した事がなかった私は慌てた。お焼香だって見様見真似で、死を受け入れる事もできなくて、
「葬式の作法って難しいですね」とぼやく私に
「慣れるもんだよ、悲しいかな、ね」
と車椅子の上司は言った。
その上司も3年前、43歳で亡くなった。
病気なんてした事がなく、一日5食くらい食べるほど食欲旺盛だったのに、まるでゼンマイが切れたブリキの人形のように帰宅途中の駅前で突然意識を失い、数日間昏睡状態が続いたが、帰らぬ人となってしまった。いつものように冗談を言って、いつものように別れた。けれど翌日その人は現れなかった。
若くして亡くなったから骨が太くて骨壺に入らなくて、奥さんと娘さんが割って壷に入れた。ぱきっ、ぱきっと骨が割れる音と誰かの啜り泣きを私達は噛みしめた。忘れるものか、忘れるものかと繰り返した。
上司は律儀な人だった。仲の良かった同僚が亡くなった時はどんなに仕事が夜遅くなっても命日に墓参りを欠かさなかった。そして墓に向かって、まるでそこに相手がいるように職場の近況を話しかけた。
上司が亡くなって半年後、私は熊本に帰ってきたが
1年に1度は墓参りのために関東に行っている。
忘れずにいたいから。もう自分に課した儀式というか業というか、1年に1度の原点回帰の機会になっている。死を想う事は生を意識する事。
「よぉ、そっちはどうだい?楽しんでるかい?」
なんて話しかけてくれないかな。
そんな声が聞こえてこないかな。
「まぁ、なんとか生きてますよ」
聞こえてきたとしても歯切れの悪い返事しか出来ず言葉に詰まってヘラヘラするしかないんだけど。
「まあ、なんとかなるべ」
あなたのあの根拠のない口癖が聞きたい。
今聞きたい。毎回そう思う。
慣れませんよ、墓参り。毎回ぎこちない。
なんとかなるんですかねぇ。
私が熊本に帰るって個人的に告げた時、「お前の人生なんだから好きに生きれば」って言ってくれましたけど、あの時ちょっと淋しそうに見えたのは気のせいですか?
今更何言ってるんでしょうね。ねぇ。
耳を澄ましても何も聞こえてこない。
いないという現実が変わらずにあるだけ。
背筋を伸ばして細く息を吸い、浅く長く吐く。そして墓地を去る。現実に押し出される。
過去の話が長くなってしまった。現実逃避だよなぁ。過去にすぐ意識を持って行かれてしまう。
初体験52 自然農を学ぶ。
自然農は、農薬、肥料を使わず耕さず、水やりもしない。自然が主役で人間は成長を手伝うだけ。設備投資はしない。お金をかけずに少ない土地でも農業は出来ると言うのだ。それで本当に育つのか?話だけでは半信半疑だったので、実践されている方に教わる事にした。月に1度、数人で学んでいる。手間も時間もかかるので一人だと挫けてしまうが、数人で作業をするから大きな失敗はないし、講師の方が丁寧に教えて下さるのでインドア派の私でも炎天下での作業が出来ている。
毎月内容は違うのだけど、今回は
小麦を収穫し、
小さなごみやわら屑を「唐箕」(とうみ)で飛ばす。
完成。
じゃがいもの収穫。
まだ数回しか参加してないが自然農は無駄がないと感じる。外から物を持ち込まない。植物の力を信じる。雑草もその土地に生えたのには意味がある、と切って土に被せて肥料にする。排除しないところが素敵だと思う。虫も草もなるだけ殺さない。多様性の実践だ。もちろん、人間の欲(多く収穫したい)との折り合いをつけないといけないから容易い事ではないのだけれど。
この日は番外編で漆喰塗り。混ぜるのに時間がかかるのが意外だった。(ちゃんと混ぜないとダマができて表面がでこぼこになる)塗るときは思い切りが大事。
今日のBGM
イントロのうにょうにょした音が、暑さで風景が歪んでセピア色になるイメージを誘う。
リゾート感だと「ジェラシー」だけど。